《駅弁のあら竹物語》 その歩み![]() |
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初代 新竹真之丞 |
明治26年12月 明治28年11月 順調に滑り出した商売も、明治38年 初代新竹真之丞が日露戦争に出征、32歳という若さで戦病死。 |
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明治40年に、鉄道が国有化されてからも、松阪は長く亀山と鳥羽を結ぶ参宮線の駅だった。
大正12年 新竹かずは 松阪駅の駅長さんの仲立ちで二代目亮太郎 (滋賀県愛知郡愛知川町出身 元銀行員 旧姓西澤)と結婚 亮太郎 談 : 『わしが新竹の家へきたときは あちこちに借金だらけやったなあ』 |
二代 新竹 亮太郎 |
右端が亮太郎、左端はかず |
昭和の初めには、家族に男手が増えたことで商いもどうにか軌道に乗り、松阪駅での構内営業、ホームでの立ち売りと従業員も十数人雇い入れ、現在の場所(日野町729)にて食堂の経営も開始。 松阪牛の駅弁誕生 昭和34年7月15日、当時の国鉄・紀勢本線の全線が開通。(名古屋~天王寺) これにともない、三重県では利用拡大を図るため全線開通記念行事や観光PRを大々的に企画。 また、当時、紀勢本線を管轄していた国鉄天王寺管理局は、紀勢本線開通宣伝協議会を作り、 それを後押しした。 そこで、国鉄天王寺管理局より沿線の各駅弁屋には、郷土色を持つ新しい駅弁の開発を競っておこなうよう お達しがあった。 |
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その中で、二代目・新竹亮太郎は、地元松阪の名産《松阪牛》に目をつけ、構想1年、 日本で初めての牛肉を使った、しかもブランド牛《松阪牛》の駅弁「元祖特撰牛肉弁当」を誕生させた。 今でこそ、弊社の「松阪牛うま〜いどん丼」のように加熱容器の駅弁があるが、
当時、昭和30年代には、加熱容器はおろか、電子レンジもない時代。 亮太郎 談 : 『原価の高い松阪牛は大衆の駅弁にはならへん!! そやけど美味しく食べてもらうには、松阪牛のええ部分を使わなあかん!!』 二代目亮太郎・かず夫婦は、何度も試作を重ね、試行錯誤を繰り返し、 この2つの問題を松阪牛の肉選び(松阪牛の内ももの柔らかい部分を厳選して使用)と、 あら竹の独特の肉の焼き方、仕上げにからめる秘伝のたれの調合などによって乗り越えた。 松阪牛の仕入れは、松阪市中町の丸中本店の先代がたいへん骨を折ってくださり、あ ちこちの牛飼い農家を駆け回り、交渉をまとめ、駅弁の材料に見合う単価で納品して もらえることとなった。 以来変わらず、丸中本店との信頼仕入れは現在も続き、40数年間毎朝、新鮮で品質 の確かな『松阪』の肉を納品してもらっている。 迎えた昭和34年(1959年)7月15日には紀勢本線全線開通を祝す松阪駅で、日本
初の牛肉、 しかも《松阪牛》の駅弁、あら竹の「元祖特撰牛肉弁当」の初売りが実施された。
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「元祖特撰牛肉弁当」が新名物に 昭和39年(1964年)には、国鉄天王寺管理局主催の駅弁品評会で堂々の1等賞に輝く。 |
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昭和42年(1967年)には、日本観光新聞社主宰の全国駅弁コンクールで3位に選ばれる。
現在 昭和34年の「元祖特撰牛肉弁当」発売以来四十数年、本物の《松阪牛》の駅弁屋として変わらぬ味を守り続け、松阪の名物として広くお客様にご愛顧をいただく。 平成6年(1994年)には、社団法人日本鉄道構内営業中央会より、構内営業100年の記念表彰を頂戴する。 平成13年(2001年)秋のBSE騒動の最中、その逆風にもかかわらず、松阪牛の安全性を全国に訴えるため、新駅弁「松阪牛うま〜いどん丼」を新発売。 平成14年(2002年)には、日本初のメロディ駅弁「松阪牛モー太郎弁当」を新発売。 現在、《松阪牛》を使った駅弁は全部で14種類。 |
平成15年(2003) 4月 松阪牛産地認定システムがスタートし、
「松阪牛」という名称の使用できる「牛肉」が産地・肥育年数などの条件
によりたいへん高額となるに伴い、駅弁の名称から「松阪牛」をはずし、
「黒毛和牛」とする。
これにより、「極上松阪牛ヒレ牛肉弁当」には証明書つきの「松阪牛」を使用、
それ以外の駅弁は「黒毛和牛」を使用表記も変更される。
ただし、使用する牛肉の品質は昭和34年以来まったく変わらず、
地元松阪で厳選された牛肉を
あら竹独自のルートで仕入れしております。
駅弁のあら竹 歴史年譜
| 明治25年 (1892年) | 参宮鉄道がひかれる |
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明治26年(1893年) |
参宮鉄道松阪駅開業 |
| 明治28年(1895年)11月 創業 | 初代新竹真之丞が 現在の駅前交番の場所で松阪駅に利用客相手に小さな商店をはじめる |
| 明治36年4月(1903年) | 参宮鉄道松阪駅にて 構内営業を開始 |
| 明治38年(1905年) | 初代新竹真之丞が 日露戦争にて戦病死
戦争未亡人となった 新竹ふくは 女手ひとつで2人の幼い娘を育てながら 松阪駅にて小さな売店を営む (真之丞が戦病死した時 かずは2歳 つぎえは1歳) つぎえは6歳にて病死 一人娘となったかずは 母ふくを助けながら 女手ばかりで商売を続ける 当時の販売品は おにぎり お茶 菓子など 〔かずは 幼きころより亡くなるまで約60年 ご飯しゃもじを握り 駅弁のご飯を入れていたので 晩年は 右手の人差し指と中指の指が曲がったまま まっすぐに伸びない状態であった〕 |
| 大正12年(1923年) | 新竹かずは 二代目亮太郎 (滋賀県愛知郡愛知川町出身 元銀行員 旧姓西澤)と結婚
亮太郎談 『わしが新竹の家へきたときは 借金だらけやったなあ』 松阪駅売店にて 駅弁(普通の幕の内弁当) お茶 菓子 酒 たばこなどを販売するとともに 現在の場所(日野町729)にて食堂も経営 |
| 昭和11年(1936年) |
二代目亮太郎・かず夫妻に 長女育子が誕生 太平洋戦争直後 少ない材料を工夫して作った自家製アイスクリーム(当時はアイスクリンと言う名前で売っていた)が毎日飛ぶように売れた |
| 昭和24年(1949年)4月 | 新竹商店から 株式会社新竹商店に 組織変更 |
| 昭和34年(1959年)7月 | 紀勢本線の全線開通を記念して日本初の松阪牛の駅弁「元祖特撰牛肉弁当」発売開始 |
| 昭和34年(1959年)12月 | 新竹育子は 三代目日出男 (松阪市松崎浦町出身 旧姓池山)と結婚 |
| 昭和38年(1963年) | 「松阪牛しぐれ弁当」新発売 |
| 昭和41年 (1966年) | 「霜ふり寿司」新発売 |
| 昭和44年(1969年) | 松阪市八太町(国道42号線沿い)において 「ドライブインあら竹」の営業を開始 |
| 昭和46年(1971年) | 松阪牛すき焼き弁当」新発売 |
| 昭和50年(1975年)12月 | 蒸気機関車C11−312を国鉄より購入。ドライブインあら竹 に展示。 |
| 昭和 61年(1986年)12月 | 二代目亮太郎 永眠 |
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昭和62年(1987年)1月 |
長年の功績により故・二代目亮太郎に松阪市より松阪市名誉市民 賞が授けられる |
| 昭和62年(1987年)10月 | 蒸気機関車C11−312を大井川鉄道に譲渡 |
| 平成 2年(1990年) | 伊勢自動車道・勢和多気IC開通に伴い 「ドライブインあら竹」を度会郡大宮町に 移転 |
| 平成 6年(1994年) | 社団法人日本鉄道構内営業中央会より構内営業100年の記念表 彰を受ける |
| 平成11年(2000年)3月 | 「元祖特撰牛肉弁当」インターネットの駅弁人気投票で第1位独走 |
| 平成12年(2001年) 10月 | 日本一高い駅弁「極上松阪牛ヒレ牛肉弁当」試作開始 |
| 平成13年(2002年) 3月 | 宣長さん200年記念事業に協賛して「本居宣長弁当」 新発売 |
| 平成13年(2002年) 9月 | 「松阪牛うま〜いどん丼」新発売 |
| 平成13年(2002年) 9月〜 | BSE騒動による売上の激減 |
| 平成14年(2002年) 9月 | 「松阪牛モー太郎弁当」新発売 |
| 平成14年(2002年) 10月 | イラストレーター鬼丸博行氏による オリジナルキャラクター「モー太郎」誕生 |
| 平成14年(2002年) 10月 |
駅弁への想いをこめたオリジナルソング「カントリー」(作詞:新竹浩子)を製作しCDとして新発売 |
| 平成15年(2003年)1月 | 東京・京王百貨店の駅弁大会で初登場の「モー太郎弁当」が連日 開店と同時に売り切れ続出 |
| 平成15年(2003年)4月 | 松阪牛産地認定システムがスタートし、駅弁の名称から「松阪牛」をはずし、「黒毛和牛」とする。 「極上松阪牛ヒレ牛肉弁当」は変更なし |
| 平成15年(2003年) 9月 |
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| 平成16年(2004年) 4月 |
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| 平成17年(2005年) 4月 | オリジナルキャラクター「鉄道員のモー太郎」のボールペンを新発売 |
| 平成18年(2006年) 4月 | オリジナルキャラクター「駅弁売りのモー太郎」のグッズを新発売 |
| 平成19年(2007年) 8月 | オリジナルキャラクター「モー太郎ライト」を新発売 |
| 平成19年(2007年) 10月 | 「松阪牛証明書」付き駅弁「松阪牛物語」新発売 |
| 平成20年(2008年) 5月 | 三重県立相可高等学校食物調理科と共に「五街道彩弁当」企画新発売 |
| 平成20年(2008年) 5月 | 食品衛生優良施設表彰を受ける |